信州イスラーム世界勉強会 e-定例会第5弾は、板垣雄三代表の「77年前の新しい日常」です!
本日から「勉強は無し」ということとなった
そんな 「お上(カミ)」の決定を伝達する学年主任「三ちゃん」こと中村先生(生物担当)の号令一下、東京府立九中2年生の私たちは、1944年梅雨の頃から45年8月まで、学校にはまったく行かず、東京板橋は志村の昭和化工という会社が毒ガス除け防毒マスクを製造していた軍需工場に毎日通勤して、「神風」の鉢巻き姿で「勤労動員」に従事した。13、4才の少年工員だ。
2年生になった途端、東京市街の強制疎開(空襲に備え、都市の空き地ゾーンをつくる)の家屋取り壊し作業をやり、ついで新河岸(しんがし)川や荒川沿いの畑での農作業もやったが、その2カ月半ほどはまだ学校を基地に通いで働いていた。ところが、昭和加工の工場で働きだしてからは学校に足を向けることは皆無となる。工場が出す大豆に米粒が混じった感じのご飯と昆布だけの味噌汁に漬物の昼食を、飽きもせず食べていた。食事当番として炊事場から飯(めし)を山と盛った盥(たらい)を生徒控所にリヤカーで運ぶ途中、上空からグラマン戦闘機に狙われ機銃掃射されたり、ポツダム宣言を受諾し降伏する天皇の「玉音放送」の数日前、工場を徹底的に破壊するB29の猛烈な爆撃下、命からがら近隣の小豆沢(あずさわ)公園の横穴に逃げ込んで助かるなど、生死の境に立たされたりもした。
考えてみれば、私の学年の受けた学校教育では、中学時代の2年近くと1949年新制大学発足の遅れによる大学1年次の半年間とは、実質的に欠落、埋め合わせがどこかで実行されたわけでもなく、実際上ウヤムヤのまま、自学自習で済んだことにされた。教育機会を奪ったことを、戦争という非常事態の結果として、大人(おとな)たちがことさら気に病んだふうでもなかった。私たちの世代は学校をそれほど当てにはしない気風を培われたように思う。まして私は、義兄(末子(すえっこ)の私にとっては親子ほども年の離れた長姉のつれあいの医師)を敗色濃い戦争末期に軍医欠乏のため徴集し硫黄島で「玉砕」させた国に対しても、無謀な戦争に調子を合わせ本土決戦を叫んで竹槍訓練をしている大人たちに対しても、疑い深かった。
強制された「新しい日常」を見なおすと
学校での勉強から切り離された分、失ったものは大きかったには違いないが、人間の「学び」はもっと多角的・多面的なものなのではないか、とつくづく思う。私たち同級生は、工場の倉庫に迷路の奥の間をつくり、交代制で姿をくらませては、読書したり、将棋をさしたり、議論したりした。ある種のレジスタンスだった。その自主的な規律と信頼関係・秩序づくり・ネットワーク形成の自己教育の意味は大きかった。
工場では、最初、生ゴムを硫黄加硫する加熱・加圧工程(分子構造を変化させて弾性をもつようにさせる)の手伝いからはじまり、やがて私たちの班は毒ガス防護室の空気取入れ口に設置するチューブ(炉管)のハンダ付けグループに属するようになった。空気漏れが許されぬ作業。やたらと御釈迦(不良品)ばかり出していた感じだったが、職人の腕を磨けば鋳掛(いかけ)師になれたかもしれない。のちに振り返れば、生産工程で品質管理(クオリティ・コントロール)システムをどのように設計すればいいか考えていたのだったということにも思い当たった。工場には、諸種の毒ガスのサンプルが手近にあったり、シンナー遊びが自由にできたり、少年たちには危険が充満していたし、職場長からは「世間(せけん)」の善悪さまざまの知恵を教わったが、工場の生産現場の労働とその組織を肌で体験した1年半は、学校では絶対に得られないものだった。
また、東京の街区の強制疎開で家屋取り壊し作業は、破壊の楽しみと後片付けの苦労と共に、建築の仕組みの構造思考や配線・配水・間仕切りなど生活の仕掛けへの開眼を促され、廃品となった設備器具の小物や部品の蒐集は、友だち同士、無限の道楽競争となることを予感させた。農作業は、都会の小市民の家庭に育った少年には、これまた無限に拡がる新世界の発見だった。畑からネギを1本抜いて泥付き皮を1枚はがし、そのまま食して狂喜した味わいは、生涯忘れられない。それは、言わば地に根付かぬ世界観と生き方とを根本的に反省させる事態でもあった。
これらのことを回顧すると、77年昔の緊急事態の再来は無論あってはならぬコースだが、学校教育のこれからのあり方に向けての提言の模索では、断然、私自身の責任で再考三考し、検討・評価して言い遺すべき事例ではあるように思われる。現在は産業の形態も組織も大きく変化してしまったが、社会の現実に身を曝す実体験の価値は、いまあらためて見なおされるべきだろう。
ついでに言うと、1944年の晩夏、私は、江田島の海軍兵学校予科を受験せよとの学校の指名を受け、工場での労働を脱けて、引率の先生1名・学友数人のグループで瀬戸内海に往復する10日間ほどの旅をした。米艦載機の攻撃で東海道線は不通。ところが中央本線も深夜の中津川駅で動けなくなり大変難渋したが、やっと広島駅まで辿り着き、海軍のボートで江田島に運ばれた。驚いたのは、戦時下誰もが空腹を抱える栄養失調の社会の中で、海軍兵学校の食堂では分厚いビフテキと真っ白なパンをはじめ目が回るような豪華料理が出てくる格差だった。日本は戦争に勝てないと私は密かに確信した。ありとあらゆる試験の末、「身長が規定に1cm不足、来年もう一度来い」と私は申し渡された(翌年は日本帝国の終わり)。私は原爆1年前の広島を見たのだった。
「大東亜共栄圏」の夢には、イスラーム世界情報が満載
1941年12月、中国大陸で10年余の泥沼戦争に足を取られながら、日本は米・英・オランダの包囲網突破の先制奇襲攻撃に踏み切り、太平洋戦争に乗り出すと、ハワイの米太平洋艦隊に大打撃を与える一方で、シンガポールを攻略、インドネシアの石油(燃料)とマレー半島の天然ゴム(車輛タイヤ)を確保する勢いを見せた。42年初め、日本国内は旗行列・提灯(ちょうちん)行列の戦勝祝賀に沸き立ち、全国の児童一人一人に戦勝記念ゴムボールが能率よく(このたびのマスクの比でなく)配布されたが、4月には東京・名古屋・神戸がドゥーリトル率いる攻撃機編隊の空襲を受け、6月にはミッドウェー海戦で日本の連合艦隊が大敗北を喫し、戦局の暗転が始まる。
しかし日本の内部では、評論家・作家たちや京都大学の哲学者・歴史家たちが、天皇を戴く日本が近代西洋の優越を乗り越え、大東亜共栄圏さらには八紘(はっこう)一宇(いちう)(世界を一つの家とする)の世界新秩序を築く戦争をしているのだと唱える「近代の超克」論をふりまいていた。アジア人口の最大多数の主要宗教はイスラームなのだとして、アジア・アフリカのイスラーム情報が、大人向けにも子ども向けにも、世に溢れるといった状況だった。私自身も、東南アジア・インド亜大陸・アフガニスタンから中東アフリカにかけての読書人向け地域情報の詳細な地図・図解入りの解説本をもっていた。1930年代後半から1945年敗戦まで、大川周明が率いる満鉄調査部(亜細亜(アジア)経済調査局)、首相を退いた林銑十郎将軍が初代会長となる大日本回教協会、イスラーム世界研究に大きな足跡を遺した回教圏研究所、外務省回教班、東亜研究所、太平洋協会、民族研究所、張家口に設置された西北研究所などが、多数の有力な研究者や調査者を擁して、活発な研究調査活動を展開してもいた。こうした花盛りのすべてが、1945年8月をもって、一挙に雲散霧消してしまったのである。野原四郎・竹内好・小野忍は中国研究へ、古在由重・斎藤信治は哲学へ、石田英一郎・梅棹忠夫は文化人類学や生態学へ、というように古巣に戻っていった。個人としてイスラーム研究者の立場に踏みとどまったのは、小林元・前嶋信次・蒲生禮一・羽田明・井筒俊彦・三橋冨士男・岩永博など、非常に少数だった。
太平洋戦争中、日本が「大東亜共栄圏」の盟主としての立場を裏付ける証しとして利用したタタール人学者アブデュル・レシト・イブラヒム(東京回教学院[現・東京ジャーミーの前身]の導師(イマーム)だった)は、1944年8月東京で死去していた。彼の墓は東京多磨霊園の外国人墓地にある。
日本社会は健忘症のせいで、第2次世界大戦後、日本がそれほどにイスラーム世界と深い因縁で結ばれていたことなど、すっかり忘却の彼方に推しやってしまった。だから、1973年や79年の石油危機などで天地がひっくり返ったような大騒ぎをした。それも「喉元すぎれば」の伝で、また忘れる。第1次世界大戦後パレスチナ問題の形成に日本が責任を負っていること、高度成長の終わりやバブルの終わりが中東と関係していること、日本が湾岸戦争で戦費の5分の1を負担したこと、安保法制の成立の背景にホルムズ海峡問題があること、米・中・露・EU・印どこにもイスラームを「テロ」扱いする問題の棘(とげ)が刺さっていること、差別に反対し尊厳の確立を求めるグロ-バル市民の動きは2011年のアラブ市民革命から出発して人類文明の普遍的課題となってきたこと、これらも皆、忘れがちだ。77年前の戦争下の「新しい日常」について、いま虚心坦懐に思い起こしてみなければならないのも、このような経緯からである。
修復的正義を実現するために
私たちは、人も・多様な生物また非生物も・ウイルスも・宇宙のあらゆる存在について/そしてまたあらゆる現実と想念についても/気にくわない「こと・もの」のすべてを「悪」として排除したり・切り棄てたり・抹殺したりするのでなく、自己批判し合い・対話し合い・協働し合いつつ、積極的(ポジティブ)な「こと・もの」を読み出し・掘り出し/そのような「こと・もの」に変え/ていかなければならないのではないか。
太平洋戦争下の「日常」と、コロナ後の「新しい日常」が響きあいます。
77年前の「新しい日常」
信州イスラーム世界勉強会代表 板垣雄三
本日から「勉強は無し」ということとなった
そんな 「お上(カミ)」の決定を伝達する学年主任「三ちゃん」こと中村先生(生物担当)の号令一下、東京府立九中2年生の私たちは、1944年梅雨の頃から45年8月まで、学校にはまったく行かず、東京板橋は志村の昭和化工という会社が毒ガス除け防毒マスクを製造していた軍需工場に毎日通勤して、「神風」の鉢巻き姿で「勤労動員」に従事した。13、4才の少年工員だ。
2年生になった途端、東京市街の強制疎開(空襲に備え、都市の空き地ゾーンをつくる)の家屋取り壊し作業をやり、ついで新河岸(しんがし)川や荒川沿いの畑での農作業もやったが、その2カ月半ほどはまだ学校を基地に通いで働いていた。ところが、昭和加工の工場で働きだしてからは学校に足を向けることは皆無となる。工場が出す大豆に米粒が混じった感じのご飯と昆布だけの味噌汁に漬物の昼食を、飽きもせず食べていた。食事当番として炊事場から飯(めし)を山と盛った盥(たらい)を生徒控所にリヤカーで運ぶ途中、上空からグラマン戦闘機に狙われ機銃掃射されたり、ポツダム宣言を受諾し降伏する天皇の「玉音放送」の数日前、工場を徹底的に破壊するB29の猛烈な爆撃下、命からがら近隣の小豆沢(あずさわ)公園の横穴に逃げ込んで助かるなど、生死の境に立たされたりもした。
考えてみれば、私の学年の受けた学校教育では、中学時代の2年近くと1949年新制大学発足の遅れによる大学1年次の半年間とは、実質的に欠落、埋め合わせがどこかで実行されたわけでもなく、実際上ウヤムヤのまま、自学自習で済んだことにされた。教育機会を奪ったことを、戦争という非常事態の結果として、大人(おとな)たちがことさら気に病んだふうでもなかった。私たちの世代は学校をそれほど当てにはしない気風を培われたように思う。まして私は、義兄(末子(すえっこ)の私にとっては親子ほども年の離れた長姉のつれあいの医師)を敗色濃い戦争末期に軍医欠乏のため徴集し硫黄島で「玉砕」させた国に対しても、無謀な戦争に調子を合わせ本土決戦を叫んで竹槍訓練をしている大人たちに対しても、疑い深かった。
強制された「新しい日常」を見なおすと
学校での勉強から切り離された分、失ったものは大きかったには違いないが、人間の「学び」はもっと多角的・多面的なものなのではないか、とつくづく思う。私たち同級生は、工場の倉庫に迷路の奥の間をつくり、交代制で姿をくらませては、読書したり、将棋をさしたり、議論したりした。ある種のレジスタンスだった。その自主的な規律と信頼関係・秩序づくり・ネットワーク形成の自己教育の意味は大きかった。
工場では、最初、生ゴムを硫黄加硫する加熱・加圧工程(分子構造を変化させて弾性をもつようにさせる)の手伝いからはじまり、やがて私たちの班は毒ガス防護室の空気取入れ口に設置するチューブ(炉管)のハンダ付けグループに属するようになった。空気漏れが許されぬ作業。やたらと御釈迦(不良品)ばかり出していた感じだったが、職人の腕を磨けば鋳掛(いかけ)師になれたかもしれない。のちに振り返れば、生産工程で品質管理(クオリティ・コントロール)システムをどのように設計すればいいか考えていたのだったということにも思い当たった。工場には、諸種の毒ガスのサンプルが手近にあったり、シンナー遊びが自由にできたり、少年たちには危険が充満していたし、職場長からは「世間(せけん)」の善悪さまざまの知恵を教わったが、工場の生産現場の労働とその組織を肌で体験した1年半は、学校では絶対に得られないものだった。
また、東京の街区の強制疎開で家屋取り壊し作業は、破壊の楽しみと後片付けの苦労と共に、建築の仕組みの構造思考や配線・配水・間仕切りなど生活の仕掛けへの開眼を促され、廃品となった設備器具の小物や部品の蒐集は、友だち同士、無限の道楽競争となることを予感させた。農作業は、都会の小市民の家庭に育った少年には、これまた無限に拡がる新世界の発見だった。畑からネギを1本抜いて泥付き皮を1枚はがし、そのまま食して狂喜した味わいは、生涯忘れられない。それは、言わば地に根付かぬ世界観と生き方とを根本的に反省させる事態でもあった。
これらのことを回顧すると、77年昔の緊急事態の再来は無論あってはならぬコースだが、学校教育のこれからのあり方に向けての提言の模索では、断然、私自身の責任で再考三考し、検討・評価して言い遺すべき事例ではあるように思われる。現在は産業の形態も組織も大きく変化してしまったが、社会の現実に身を曝す実体験の価値は、いまあらためて見なおされるべきだろう。
ついでに言うと、1944年の晩夏、私は、江田島の海軍兵学校予科を受験せよとの学校の指名を受け、工場での労働を脱けて、引率の先生1名・学友数人のグループで瀬戸内海に往復する10日間ほどの旅をした。米艦載機の攻撃で東海道線は不通。ところが中央本線も深夜の中津川駅で動けなくなり大変難渋したが、やっと広島駅まで辿り着き、海軍のボートで江田島に運ばれた。驚いたのは、戦時下誰もが空腹を抱える栄養失調の社会の中で、海軍兵学校の食堂では分厚いビフテキと真っ白なパンをはじめ目が回るような豪華料理が出てくる格差だった。日本は戦争に勝てないと私は密かに確信した。ありとあらゆる試験の末、「身長が規定に1cm不足、来年もう一度来い」と私は申し渡された(翌年は日本帝国の終わり)。私は原爆1年前の広島を見たのだった。
「大東亜共栄圏」の夢には、イスラーム世界情報が満載
1941年12月、中国大陸で10年余の泥沼戦争に足を取られながら、日本は米・英・オランダの包囲網突破の先制奇襲攻撃に踏み切り、太平洋戦争に乗り出すと、ハワイの米太平洋艦隊に大打撃を与える一方で、シンガポールを攻略、インドネシアの石油(燃料)とマレー半島の天然ゴム(車輛タイヤ)を確保する勢いを見せた。42年初め、日本国内は旗行列・提灯(ちょうちん)行列の戦勝祝賀に沸き立ち、全国の児童一人一人に戦勝記念ゴムボールが能率よく(このたびのマスクの比でなく)配布されたが、4月には東京・名古屋・神戸がドゥーリトル率いる攻撃機編隊の空襲を受け、6月にはミッドウェー海戦で日本の連合艦隊が大敗北を喫し、戦局の暗転が始まる。
しかし日本の内部では、評論家・作家たちや京都大学の哲学者・歴史家たちが、天皇を戴く日本が近代西洋の優越を乗り越え、大東亜共栄圏さらには八紘(はっこう)一宇(いちう)(世界を一つの家とする)の世界新秩序を築く戦争をしているのだと唱える「近代の超克」論をふりまいていた。アジア人口の最大多数の主要宗教はイスラームなのだとして、アジア・アフリカのイスラーム情報が、大人向けにも子ども向けにも、世に溢れるといった状況だった。私自身も、東南アジア・インド亜大陸・アフガニスタンから中東アフリカにかけての読書人向け地域情報の詳細な地図・図解入りの解説本をもっていた。1930年代後半から1945年敗戦まで、大川周明が率いる満鉄調査部(亜細亜(アジア)経済調査局)、首相を退いた林銑十郎将軍が初代会長となる大日本回教協会、イスラーム世界研究に大きな足跡を遺した回教圏研究所、外務省回教班、東亜研究所、太平洋協会、民族研究所、張家口に設置された西北研究所などが、多数の有力な研究者や調査者を擁して、活発な研究調査活動を展開してもいた。こうした花盛りのすべてが、1945年8月をもって、一挙に雲散霧消してしまったのである。野原四郎・竹内好・小野忍は中国研究へ、古在由重・斎藤信治は哲学へ、石田英一郎・梅棹忠夫は文化人類学や生態学へ、というように古巣に戻っていった。個人としてイスラーム研究者の立場に踏みとどまったのは、小林元・前嶋信次・蒲生禮一・羽田明・井筒俊彦・三橋冨士男・岩永博など、非常に少数だった。
太平洋戦争中、日本が「大東亜共栄圏」の盟主としての立場を裏付ける証しとして利用したタタール人学者アブデュル・レシト・イブラヒム(東京回教学院[現・東京ジャーミーの前身]の導師(イマーム)だった)は、1944年8月東京で死去していた。彼の墓は東京多磨霊園の外国人墓地にある。
日本社会は健忘症のせいで、第2次世界大戦後、日本がそれほどにイスラーム世界と深い因縁で結ばれていたことなど、すっかり忘却の彼方に推しやってしまった。だから、1973年や79年の石油危機などで天地がひっくり返ったような大騒ぎをした。それも「喉元すぎれば」の伝で、また忘れる。第1次世界大戦後パレスチナ問題の形成に日本が責任を負っていること、高度成長の終わりやバブルの終わりが中東と関係していること、日本が湾岸戦争で戦費の5分の1を負担したこと、安保法制の成立の背景にホルムズ海峡問題があること、米・中・露・EU・印どこにもイスラームを「テロ」扱いする問題の棘(とげ)が刺さっていること、差別に反対し尊厳の確立を求めるグロ-バル市民の動きは2011年のアラブ市民革命から出発して人類文明の普遍的課題となってきたこと、これらも皆、忘れがちだ。77年前の戦争下の「新しい日常」について、いま虚心坦懐に思い起こしてみなければならないのも、このような経緯からである。
修復的正義を実現するために
私たちは、人も・多様な生物また非生物も・ウイルスも・宇宙のあらゆる存在について/そしてまたあらゆる現実と想念についても/気にくわない「こと・もの」のすべてを「悪」として排除したり・切り棄てたり・抹殺したりするのでなく、自己批判し合い・対話し合い・協働し合いつつ、積極的(ポジティブ)な「こと・もの」を読み出し・掘り出し/そのような「こと・もの」に変え/ていかなければならないのではないか。